仕事と英雄。

原発の事故で、緊急避難時に残ったと言う50人をして、
英雄視する報道が海外メディアを中心に上がっている、という。
asahi.com(朝日新聞社):「英雄フクシマ50」欧米メディア、原発の作業員ら称賛 - 東日本大震災
「フクシマ50勇士」外国紙、東電作業員を称賛 国際 YOMIURI ONLINE(読売新聞)
中国では、「福島決死隊」と報道してるところもあるそうで。
なんだか彼ら作業員に対する視線がどういうものであるのか、
中国語だと良く解る気がする。
実際は50人だけということはもちろんなく、
様々な会社に属し、応援も含め今は850人くらいで
後退しながら作業している、という。
Fukushima 50とはもう、シンボルであって「単語」のようだ。
もうWikiまである。
Fukushima 50 - Wikipedia
英語どころかオランダ語やらポーランド語まで。
過去、英雄というのは民衆が作った。
マスメディアの時代、英雄はメディアが作った。
そしてインターネットの時代になって、
ただ一方的なマスメディアの報道による英雄ではなく、
ネットを通して大衆が参加し、複合的に英雄は生まれている。
良し悪し、はともかくとして、何だか益々、
英雄の向こうにある彼らの実態は、見えなくなっているように思う。
「決死隊」の表記が語るように、
大衆は彼らには死が付きまとうことを感じている。
事実その側面はあるのだろう。
結局、いくら国が、科学者が、ギリギリの中で安全性を訴えても、
僕らは信じ切れていない、ゆえの英雄視なんじゃないだろうか。
逆に、原発で働き、専門知識を持つような人たちにとって、
どういう思いで見て、参加しているか。
福島第1原発:英雄でも何でもない…交代で懸命の復旧作業 - 毎日jp(毎日新聞)
この記事がどこまで、取材に答えた人の肉声を伝えているのか、
解らないけれど僕はとても腑に落ちた。
僕もきっと、同じ立場であればそう思う気がしたから。
というか、そもそもこのような肉声にあるような考えは、
欧米的ではなく全く日本的にも思える。
一方的な労働者と資本家の関係で語れる発想じゃない。
ただ明確なのは、彼らが難しい決断の上に作業に従事していること。
そして僕らは、その信じない故の後ろめたさから、
彼らを実態とは別枠で身勝手にも英雄視し納得していること。
きっとこの事態が沈静化すれば、
原発議論は沸騰することだろう。
僕らは何が怖いかも解らず怖がり、
原発廃止論者がたくさん増えるのだろう。
原発は、彼らに仕事を与えている。
僕らは、恐怖で彼らから仕事を奪うかもしれない。
果たして、何がベストなんだろうか。

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